バギオについて

バギオは、フィリピン北部ルソン島のコルディリェラ行政地域にある都市で、 この地域の中心的な存在です。

ベンゲット州の領域内にはありますが、どこの州にも属さない独立した都市 です。バギオは観光地であり、近くにユネスコの世界遺産にも登録されてい るコルディリェラの棚田群など、見所が豊富で多くの観光客が訪れます。面 積は49ku、人口は252,386人(2000年)です。

高地にあることから年中冷涼な気候で、特に2月から5月にかけてのサマー シーズンは、多くの観光客で賑わいます。このことからバギオは「サマーキャ ピタル」とも呼ばれています。一年を通して冷涼な気候で絶好の避暑地とな っています。

マゼランが1521年にセブ島に上陸して以来、350年間スペインがフィリピン を植民地支配していました。1898年、米西戦争の結果、スペインを破った アメリカがフィリピンを買い受け、以後スペインに代わってアメリカがこの地 を植民地としました。その支配はフィリピンが1946年に独立を果たすまで続 きました。このアメリカ支配時代、マニラの暑さに耐え兼ねたアメリカ人らに よって避暑地としてのバギオの開発が始まりました。

バギオ開発の当初、道路建設で難渋したアメリカ人は日本人の勤勉さに着 目し、日本からの移民にその建設を託しました。移民日本人は劣悪な労働 条件のもと、峻烈を極める自然と闘い、多くの犠牲者を出しながらようやく 1903年に完成しました。道路の名前は建設責任者の名前を取ってケノン 道路と呼ばれています。

この建設に従事した日本人の一部は、フィリピン人と結婚するなどして現地 に残りました。彼らの中には、その勤勉さでもって事業に成功した人も多く、 結果、現地の日本人の地位は次第に向上し、第二次大戦が起こる以前の 時代、その繁栄はピークに至りました。しかしながら、現地の日本人らにとっ てわが世の春とも思われた繁栄は日本軍のフィリピン侵攻、植民地、敗退を 経て暗転しました。侵攻、植民地化していくなかでの日本軍の残虐行為、 また最終的に日本軍が敗走するに及び、現地の村々を焼き払ったことへの 怨念は凄まじく、日本人及びその子孫は現地人からの襲撃に晒されました。 彼らは山奥に逃げ込んで常に生命の危険に怯えながら飲まず食わずの生活 を強いられました。その悲惨な生活は戦後なおも続き、1972年に至って、シ スター海野が命を張っての救出活動を始めるまで続きました。

シスター海野は1973年に北ルソン日比友好協会を設立、1974年奨学金制 度を始めるなど日系人の地位向上に尽力しました。一方ではフィリピン人を貧 困から救うため、1983年に農業協同組合を創設するなどフィリピン人の生活 向上にも多大に尽力し、バギオ市のあるベンゲット州から名誉州民の称号を 贈られました。現在では、その二世から四世が中心になって、日系人社会を 支えております。

 

シスター海野
 

ケノンロード

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